最近、巷で使われる「カオス」という言葉がある。
シニア世代の方は意味を知らずに聞き流しているのではないだろうか?
カオスと聞いてギリシア神話にでてくる「原初神」を思い出す人がいるかもしれない。
最近、頻繁に使われているカオスは意味が違う。
カオスの意味は「混沌とした」となる。
「混沌」の意味をさらに調べていくと「区別が立たずに入り混じっている事」だ。
これだけ抽象的な表現も珍しい。
かなり曖昧だが、ある意味非常に便利な言葉でもある。
テレビなどマスコミはこの手の言葉が大好きだ。
あとあと突っ込まれてもいくらでも逃げる事ができるからだ。
カオスの使い方を揚げてみよう。
「インドの雑踏がカオスすぎる」とか「年末の渋谷のスクランブル交差点がカオスすぎる」という感じだろう。
ところが最近のテレビ番組の表現は少々変わってきている。
どちらかというと「混沌」ではなく「混乱」を表わす言葉になっているように思える。
ただ言葉は生き物だから時代によりその意味が変わっていくのはしょうがないと思っている。
例えば「情けは人の為ならず」という言葉がある。
一般的には「人に情けをかけるのはその人のためにならない」という認識だろう。
ところがこの言葉の本当の意味は「人に情けをかけるのは自分のためになる」というから驚く。
また「他力本願」は「他人の力で臨みを叶える事」というネガティブなイメージがある。
でもここでいう「他力」とは他人の事ではなく「阿弥陀如来」の事なのだ。
つまり他力本願は仏様の力を借りて「仏様になろうとする願い」の事なのだ。
そう考えると言葉は生き物だという事が理解できる。
当初、使われていた意味合いが時代と共に変わっていくのだ。
下手をすると反対の意味が主流になる事さえある。
カオスという言葉はあまりにも日本語的な響きをしている。
また日本語の形容詞として使えそうなる文字数。
多少、表現を間違ってもテレビ的に数字を稼げれば何の問題もないのだろう。
そしてテレビ視聴者はいとも簡単に新しい言葉に洗脳させられる。
まさにテレビ視聴者自体がカオスの状態にあるのかもしれない。
もちろんこの場合のカオスの意味は「混沌」ではなく「混乱」だ。
情報が溢れる現代は情報が得る側が情報を選別するしかない。
間違ってもテレビや新聞の情報を鵜呑みにしない事だ。